その静寂を体験した後、また公案がやってきました。次は「真実」とは何か。という難題です。
今までの2つの公案と違って、見当もつきません。また、聖人の真実についての本を手に入れて、いつものベンチで向き合います。難解な本を読み進めるのですが、なんとなくわかるようで解りません。当たり前のことなのでしょう。その本にも「真実は人によって違う」と書いてあります。聖人の言う真実と、私の言う真実とは違って当たり前なのでしょう。本を読んでわかるはずがありません。また、3ヶ月の格闘が始まりました。
静寂を体験して、ちょうど3ヶ月目位だったと思います。いつものベンチに座り、瞑想をしようと目を閉じた瞬間のことでした。
体中の毛穴という毛穴から、答えが染み込んできたのです。表現がおかしいですよね。しかし、そう表現するしかないのです。乾いたスポンジに水が吸い込まれるように、答えがジワッと染み込んできたのです。
そして、目を開いた瞬間「そこに石ころがある。そこに草が生えている。それが真実だ」と、威厳に満ちた声が入ってきたのです。
言葉にすると、当たり前のことなんですが、その当たり前の答えが、毛穴という毛穴から、体の奥底に向かって染み込んできたのです。
その時、二度目の静寂が訪れました。静寂の中に真実が染み入っていく感覚です。水面は静まり返り、夜の木々と月を映しています。目から鱗が落ちると言いますが、それよりは「目が開いた」と言う表現が適切です。
まさしく「そこに石ころがある。草が生えてる」のです。
留言