結局何もわからないまま、諦めて本に目を落としました。そうすると、下の方から犬を連れたおじさんがやってきました。しかも猟犬のポインターです。リードも外しています。犬は喜んで駆けずり回っています。「なぜこのタイミングに犬を連れてくるかな。せっかくフクロウが来ているのに」と、犬の動きを見ていました。
そうすると、犬はフクロウのいる石に向かって一目散に走っていたのです。「あー、やっぱり見つけたか」と犬を視線で追うと、フクロウは犬を一切無視して、すっと立っているではありませんか。気にもかけていません。犬はと言うと、石の周りをくるくると嗅ぎ回っています。何かの気配は感じているようですが、フクロウに気づかないのです。顔を上げれば目の前にフクロウはいるのですが、全く気付かないのです。一体何が起きているのか、理解ができません。30秒ほど犬は石の周りを嗅ぎまわっていたのですが、諦めたのか山のほうに向かって駆け上がっていきました。
呆気にとられている私を横目に、犬の後を同じように、おじさんがフクロウのすぐ横を通って行くのですが、彼もまたフクロウの存在に気づきません。手を伸ばせば触れる距離にいるにもかかわらずです。
その様子を、私はビックリしながら見ていました。「これが無なんだ」。
フクロウは、犬やおじさんに一切反応していなかったのです。普通であれば、恐怖心で逃げるか、あるいはもしかしたら戦うかもしれません。いずれにしても、何らかの反応を起こすと考えて当然でしょう。もし私がフクロウの立場にいたら、間違いなく何らかの反応をしたでしょう。そうしたら、犬はフクロウの存在に気づいたことでしょう。
しかし、そのフクロウは一切の反応をしなかったのです。それは、気づかれないようにジッとしていた、というレベルではありません。恐らく、フクロウの中には恐怖心も不安感も何も無かったのでしょう。フクロウの内面が反応していなかったのです。ですから、犬にしてみたら無いものと同じだったのです。その時、フクロウは「無」だったのです。
やはり教えに来てくれてました。とにかく何もなかったのです。
フクロウにお礼を言い、本に視線を落とし、5秒ほどしてまたフクロウを見ると、もうそこにいませんでした。
第35代横綱の双葉山の言葉を思い出しました。彼は連勝が69で止まった時に「我未だ木鶏に至らず(われ いまだ もっけいに いたらず)」と言っています。「木鶏」とは、木彫りの闘鶏です。木彫りですからどんな状況であっても、ビクリともしません。大横綱の双葉山であっても、木鶏にはなれなかったと言っています。
しかし、フクロウは木鶏そのものでした。それは、強さゆえに恐怖を感じなかったのではありません。強い弱いを超えて何も無かったのです。
無であることの意味がなんとなくわかりました。と言うよりも、「無ではない」と言うことの意味が分かったと言ったほうが早いかもしれません。私たちは、様々なものに対して、様々な反応をしています。その反応に応じて、また周りが反応します。その繰り返しなのでしょう。その反応の中に私たちの存在が生じるのかもしれません。ということは、その循環の中から外れることで、「無」になれるのかもしれません。
さらには、この三次元の世界とは違う世界に行けるのかもしれません。
続く
フォレスト前世療法研究所
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